マッカーサー

天皇陛下がビデオでお言葉を述べるという事でしたが・・・思っていたより、生前退位について、強いお気持ちがある事に驚きました。
この件については、もうちょっと考えをまとめて、また後日に書こうと思います。

昨日、放送された池上彰の「教科書に載っていない20世紀」という番組は、生前退位のお言葉が予想されたため、「昭和天皇マッカーサー」という特集でした。

なんでも、昭和天皇終戦後の昭和20年12月に、退位の意思を示した事があるそうですが・・・宮内庁経由でその報告を受けたマッカーサーは、書類にトミーロッド(馬鹿野郎)と走り書きしたそうです。
そして、マッカーサー天皇は日本占領時代の6年間に11回も会見を行い、クリスマスにはプレゼントを交換するような関係を構築したという事で、二人が協力して戦後の日本を創り上げたといえそうです。

そもそも、マッカーサーは、日露戦争の頃、駐日大使館づけの武官であった父親に付随して来日していた事があり、日本人の性質については、良く知っていたと思われます。
そのため、当初から、日本の戦後処理については、天皇を上手く利用する事を考えていたのではないでしょうか?

番組では、マッカーサー天皇の最初の会見の時に撮影された写真とか、マッカーサーが厚木飛行場に降り立ったときの映像のような「演出」について述べていましたが・・・それも、日本人がどういう物を敬うかという印象を計算しての上だと思います。

ちなみに、番組では、厚木飛行場には事前に米軍が何度も着陸のリハーサルをしていたとか、述べていましたが・・・
厚木飛行場と言えば、終戦の日玉音放送を阻止しようとして皇居に乗り込んだ部隊の基地であり・・・マッカーサーに同行した兵士が、未だ武装解除も終わっていない日本軍の高射砲が並んでいるのを見て、びびってしまったという話もあるので・・・やはり、マッカーサーの行動は、演出とはいえ、勇気があったといえるでしょう。

そういえば、日本軍はアメリカの物量に負けたと言いますが・・・実は、戦力はほとんど欧州戦線へ回されていて、マッカーサーの配下は兵力不足だったそうです。
しかし、暗号の解読と空軍の力・・・特に空輸という手段を使って、日本軍の手薄なところに集中して攻撃をしかけ、飛び飛びに飛行場を建設していくという作戦を行ったのです。
(このため、攻撃を受けた場所では、アメリカ軍の物量が豊富に思えたようです)

その結果、南太平洋に全域に散らばった日本軍は、後方kらの食料や弾薬の補給を絶たれてしまうのですが・・・こういった場合は、戦線を縮小して体制を立て直すべきところ・・・退却をするよりも、飢えと弾薬不足を我慢するという、日本人の特性を理解していた作戦だと言えるでしょう。

この日本人の特性をよく理解しているマッカーサーの存在は、戦後の復興ではプラスに働きます。
マッカーサーは、単に戦後処理だけでなく、日本が再び戦争をしないように、日本人の心に自由主義を植え付けることに努力したのですが・・・そこには昭和天皇の存在を上手く利用するという事もありました。

その地域に対する理解が少ないため、アフガニスタンイラクなど多くの地域で、戦後処理が終わった後、再び混乱に陥ってしまった事を考えると・・・このマッカーサーの取り組みは、非常に良い結果をもたらしたと思います。

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マッカーサー対戦回顧録」 ダグラス。マッカーサー著 津島一夫訳 中公文庫