昨日はシューマッハの仏教経済学について書きました。
仏教経済学には利他の心があるのに対して、資本経済学では自利の精神が優先されると言われています。
例えば、需要と供給のバランスで価格が決まるという、いわゆるアダムスミスの神の見えざる手ですが・・・
「各個人が市場経済において自己の利益を追求すれば、「見えざる手」の働きにより、社会全体の利益が達成される」
とされています。
特に、イスラム教国では、自分とその部族の利益を追求することが多いです。
そして、大量消費による最大利益という形の利益の追求が行われます。
したがって、天然資源なんかも、取りつくしてしまう傾向があります。
一方の仏教経済では、少量消費の最大利益の追求を目指しています。
かつては、木を大切にして植林なんかを行うのはほとんど仏教国だったそうです。
これは、もともとが農耕民族と遊牧民族ということも関係しているかもしれませんね。
昨日は、シューマッハの「人間は工業なしでも生きられるが、農業がなければ生きられない」という言葉を紹介しましたが、これに関連して思い出したのが
「最後の木が倒れ、最後の魚が死に、そして最後の川が汚染されたら、そのときお金は食べられないことがわかる」
という言葉です。
よく環境問題のスローガンで使われいますが、元々はインディアンのことわざだったそうです。
現在も、世界の食糧問題は深刻な状況です。
工業優先や金儲け優先をしていて、循環型の環境社会を構築しなければ、将来、食糧は無くなってしまうと心配しています。