お金は食べれない

昨日はシューマッハの仏教経済学について書きました。

仏教経済学には利他の心があるのに対して、資本経済学では自利の精神が優先されると言われています。
例えば、需要と供給のバランスで価格が決まるという、いわゆるアダムスミスの神の見えざる手ですが・・・
「各個人が市場経済において自己の利益を追求すれば、「見えざる手」の働きにより、社会全体の利益が達成される」
とされています。

そういえば、想像を超えるようなお金持ちは、仏教国には少ないですが、イスラム教国やキリスト教国には多いのも、このせいかもしれませんね。
特に、イスラム教国では、自分とその部族の利益を追求することが多いです。
サウジアラビアなんて、その国名は日本語に訳すと「サウード家によるアラビアの王国」です)

これは、仏教経済では足りることを知るといういわゆる中道の意識が強いですが、イスラム教やキリスト教の経済では、神が与えたものを無駄にしてはいけないという意識が強いからだと思われます。
そして、大量消費による最大利益という形の利益の追求が行われます。
したがって、天然資源なんかも、取りつくしてしまう傾向があります。
一方の仏教経済では、少量消費の最大利益の追求を目指しています。
かつては、木を大切にして植林なんかを行うのはほとんど仏教国だったそうです。
これは、もともとが農耕民族と遊牧民族ということも関係しているかもしれませんね。

昨日は、シューマッハの「人間は工業なしでも生きられるが、農業がなければ生きられない」という言葉を紹介しましたが、これに関連して思い出したのが
「最後の木が倒れ、最後の魚が死に、そして最後の川が汚染されたら、そのときお金は食べられないことがわかる」
という言葉です。
よく環境問題のスローガンで使われいますが、元々はインディアンのことわざだったそうです。
それが、1980年代初頭に環境保護団体のグリーンピースが、汚染物質を垂れ流す企業の煙突や排水口に、この言葉を書いた垂れ幕を掲げたので、世界的に知れ渡ったそうです。

現在も、世界の食糧問題は深刻な状況です。
工業優先や金儲け優先をしていて、循環型の環境社会を構築しなければ、将来、食糧は無くなってしまうと心配しています。