ゴータマ・ブッダ 釈尊伝

今日、車で買い物に行って、天気が良かったので帰りに桜が綺麗に咲いているところを通ったのですが、新型コロナの影響で花見ができないせいか、道を歩いている人が多かったです。

自転車で道路の中央を、桜を見ているせいか、フラフラと走っている人もいるし・・・写真を撮るために、車が近づいているのに道路に出てくる人もいて、かなり危険な感じで・・・運転しながらだと、あまり桜を見れなかったです。

 

考えようによっては、皆さん、桜の下で飲んで騒ぐよりも、ステイホームのお陰で、桜の本来の有難味を感じているような気がします。

 

そういえば、以前も書きましたが、私はこの世は天国だと思っています。

天国という言葉で思い浮かべるような・・・年中、花が咲き乱れているような気候よりも、四季があった方が良いし・・・同様に、人生も山や谷がある方が面白いし・・・もし、老いとか死が無かったら、何でも後回しにしてしまい、努力して成功することもないだろうと考えています。

 

そういえば、最近、中村元著の「ゴータマ・ブッダ 釈尊伝」を読んだのですが、なるほどと思った事がいくつも記述してあって、面白かったです。

以前から、お釈迦様は何故、この世は苦に満ちているなんて考えたのだろう?と、疑問でしたが・・・四門出遊のような話は、お釈迦様の死後に付け加えられた逸話だったようです。

お釈迦様は、国王の息子として恵まれた生活だったのですが、いくら恵まれていても、病気、老い、死の苦しみから逃れられないと考えただけみたいです。

 

他にも、悟りを開いて仏陀という別のものになるという概念なんかも、初期の仏教には無かった概念で、お釈迦様は悟りを開いても単なる修行者の一人で、その後も修行を続けたとか・・・苦行を棄てて悟りを開いたのではなく、苦行をする事は否定しなかったとか・・・

後年の仏教経典を作る人達が、神格化とか教団を大きくするために、勝手な解釈を付け加えたものが多いみたいですね。

 

そういえば、一人で修行していた時を除けば、お釈迦様は剃髪していたそうで、仏像や仏画に描かれるような髪や髭は無かったようです。もちろん、三十二相なんていうのも後年の人の空想です。

 

この本を読んで、一番驚いたのは、「歴史的人物としてのゴータマはその臨終においてさえも、仏教と言うものを説かなかった。彼の説いたのは、いかなる思想家・宗教家でも歩むべき真実の道である。」という文章・・・後年の経典作者が、仏教と言う教えを作ったそうです。