楠木正成

新年度も始まり、新入社員と思われる人もちらほら見かけるようになりました。
通勤時には、新入社員の方や転勤された方でしょうか、乗換に未だ慣れていないようで、うろうろしている人も結構見かけます。

私は、いつものように、朝は少し早く出て皇居の周り歩いて、通勤しています。
そういえば、千鳥ヶ淵近辺は、桜目当てで、いつもより大勢の人が歩いています。

皇居前に楠木正成の像が建っているのを見て、以前、疑問に思っていた事を思い出しました。
楠木正成南朝の武将だったはず、今の天皇北朝の子孫だから、朝敵にあたるはず・・・
なんで、楠木正成の像が皇居に建っているのだろう?
皇位を狙った道鏡の野望を阻止した、和気清麻呂の像が建っているのはなんとなく判るのですが。

調べてみると、戦前の昭和15年紀元2600年を記念して、文武の二人の忠臣の像を建立したそうです。
もともと太平記等で、楠木正成はその忠臣ぶりで人気あったのですが、江戸時代の水戸学の尊王思想により、忠君として称えられるようになったそうです。
そして、幕末の尊王攘夷の思想を受け継いでいた大日本帝国政府が、戦時体制に向けて天皇崇拝意識を強めようして像を建立したようです。
その後の戦争の結果を考えると、負けた武将の像というのが、皮肉ですね。

歴史的にみると、楠木正成のように滅びる側について、敗色が濃い流れの中で、少ない兵力なのにあの手この手で活躍する武将が、時々現れます。
戦国時代の真田幸村とか、幕末の土方歳三とか・・・
海外では、中国の秦王朝末期の章邯とか、第二次世界大戦のドイツのロンメルなんかが、そんな感じでしょうか?
で、日本人って、判官びいきというか、そんな武将が好きなんですよな。
(そういえば、源義経も似た感じかも・・・)

例えば、真田幸村は、徳川幕府の敵なのに江戸時代に真田十勇士の講談とかで人気が出ています。
ちなみに、本当は真田信繁という名前で、真田幸村というのは江戸時代になってからの講談とかで使われた名前だそうです。

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(桜の枝を入れたかったので、後ろ姿になってしまいました)