桜田門外の変

一昨日の朝は、東京でも雪が舞っていました。
いつものように皇居の周りを歩いていて、ふと桜田門外の変について考えました。
御存知のように、井伊大老が水戸浪士に殺害された桜田門外の変も雪の日だったそうです。
その日は旧暦の3月3日なので、季節外れの雪だったはずです。

皇居の堀沿いに江戸時代に名水と言われていた「桜の井戸」と「柳の井戸」の跡をしめす看板が立っています。
柳の井戸は土手の下側にあり、桜の井戸は国会前庭の横にあります。
もともと桜の井戸は、国会議事堂前交差点の中にあったそうで、現在の場所に移されたそうです。、
そして、もともと桜の井戸があった場所が、江戸時代には井伊藩邸の門前だったそうです。

とすると、井伊藩邸の門前から桜田門までは堀沿いに500メートル程度、意外に近いのに驚きます。
雪が降っていたとしても、見通せる距離だし、
井伊藩邸の家来が事件を知ってから、2~3分で駆けつける事が出来るはずです。
もちろん、桜田門側にも門番とかいただろうし、当時の絵をみると、井伊藩邸と桜田門の間には詰所まであります。
よく、こんなところで襲撃したなぁ、と思います。

通説では、襲撃は10分程度と言われていますが、井伊藩邸から家来が駆けつけた時には、既に襲撃者は去った後だったというので、雪でぬかるんだ道とかを考慮しても、実際は5分程度だったのではないかと思います。

堀の反対側は、現在は警視庁が建っていますが、当時は松平家の藩邸で塀がつづいていたようです。
襲撃者達が隠れる場所なんてありません。
調べてみると、ほとんど雪が止んでいて、登城する大名目当ての見物人が出てきたので、それに紛れていたそうです。

よく映画等では舞台は街中になっていて、雪の中、民家の軒先などに潜んでいて、行列がくるのをじっと待っているのですが、実際は、井伊藩邸から行列が出てくるのも良く見えただろうし、かなり違っていたのですね。

襲撃が成功した要因の一つに、護衛側の彦根藩士が、雪用に雨合羽を着て刀に袋をかぶせていたため、とっさに応戦できなかった事があげられます。

もし、もっと雪が降っていたら、見物人がいないので、隠れる場所の無い水戸浪士は不審がられただろうし、逆に晴れていたら、護衛は迅速に応戦できたし、井伊藩邸からの加勢もすぐに到着したはずです。
こう考えると、水戸浪士の計画はずさんだったと言えると思います。
それでも、襲撃が成功したのは、偶然にも天候に恵まれたためで・・・
逆にいえば、井伊大老は、それこそ天に見放されていたのではないかという気がします。

そして、幕府の威信は失墜し、時代は明治維新へ大きく動き出します。