鄧小平

今日、銀座の辺りを歩いたら、相変わらず中国人観光客が大勢いました。
他の国の観光客は譲り合って歩くのですが、中国の方は歩道をふさいでいて、意外と迷惑です。
この譲り合わないというのは、面子を重んじるからなのでしょうかね?

昨日は、天安門事件について書きましたが、あの観光客達は事件の事を忘れてしまったのか、なんて考えてしまいました。

御存知の通り、天安門事件で武力鎮圧を決めたのは鄧小平です。
色々な評価があると思いますが、現在の中国に与えた影響という点では、毛沢東に次ぐ偉大な政治家だと思います。

そもそも鄧小平が共産党に入党したのは、第一次世界大戦後のパリです。
その頃のパリは共産党の運動が活発で、周恩来もそこにいましたし、ベトナムホー・チ・ミンなんかとも、そこで知り合ったようです。

鄧小平は3度失脚し、3度復権しています。
このうち、1回目と2回目はパリ以来の付き合いの周恩来による後押しです。
3回目は、周恩来毛沢東が死んで、文化大革命が終わった後です。
そういえば、周恩来が死去した1976年にも天安門でデモがあり、こちらを第一次天安門事件、1989年の方を第二次天安門事件と呼ぶ事もあります。

文化大革命の時には大勢の要人が抹殺されましたが、鄧小平が抹殺されなかったのは、毛沢東が健康に不安があった周恩来の予備として、後継者になる人材を残しておきたかったため、と言われています。

そして、中国首脳として来日した鄧小平は、日本の躍進ぶりに目を見張り、改革開放路線を打ち出します。
しかし、文化大革命の影響を受けたカンボジアポル・ポト政権を支援するため、既に亡くなっていましたがパリ時代の仲間のホー・チ・ミンが作り上げたベトナム中越戦争を起こしたりもしています。

鄧小平の改革開放路線を支えたのが趙紫陽胡耀邦です。
鄧小平は「天が落ちてきても、趙紫陽胡耀邦が支えてくれる」と信頼していました。
しかし、胡耀邦は若くして亡くなってしまいます。
そして、周恩来が亡くなって第一次天安門事件が起きた時のように、胡耀邦追悼のデモ隊が天安門に集まります。
もう一人の趙紫陽天安門に集まった学生を支持しますが、周恩来の養子の李鵬は強硬な武力鎮圧を主張します。
結局、鄧小平は武力鎮圧に踏み切り第二次天安門事件となり、趙紫陽は失脚します。

考えると、鄧小平は改革開放を進めましたが、パリ時代からの生粋の共産主義者だったように思えます。
毛沢東は、自分の影響力が無くなったことが原因で文化大革命を起こしたと言われています。
鄧小平も、急激な民主化によって、自分の存在が薄れたように感じていたのが、第二次天安門事件を引き起こした原因の一つではないか?なんて思います。
そう、面子を重んじる民族だから・・・

なお、趙紫陽が失脚しても抹殺されなかったのは、文化大革命の時に毛沢東が鄧小平を生かしていたように、鄧小平も趙紫陽復権させる気持ちがあったからだという説もあります。

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「鄧小平 最期の闘争」 江之楓著 戸張東夫訳 徳間書店

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「ニュー・エンペラー 上」 ハリソン・E・ソールズベリー著 天児慧監訳 福武文庫

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「ニュー・エンペラー 下」 ハリソン・E・ソールズベリー著 天児慧監訳 福武文庫