少し前に大学通信教育のスクーリングを受けていたのですが、東洋史の教授が邪馬台国について少し触れていました。
邪馬台国については魏志倭人伝に書かれていると言われていますが・・・『三国志』の『魏書』巻三十「烏丸鮮卑東夷伝」の一部に倭の記述がある部分を通称で魏志倭人伝と言っているそうです。
つまり東の方角から魏に朝貢していた国々が東夷で、その一つが邪馬台国(倭人)だったのです。
で、邪馬台国は、東夷のなかではかなり上位のランクの待遇だったそうです。
何故かというと、魏の国の人々は、もっと邪馬台国は南に位置すると思っていたので、当時敵対していた呉に対して海を挟んだ位置に同盟国があると優位だったからです。
そもそも、中国では、秦の始皇帝の時代に徐福という方士が東方の海の彼方に不老不死の薬があると言って船出したように、そのあたりの海域に国があるという伝説がありました。
一方、かつて日本史の授業で邪馬台国について習ったとき、下記のような記述について
其の北岸狗邪韓国に至る七千余里。(伽耶・加羅・金海)
始めて一海を渡ること千余里にして対馬国に至る。(対馬)
又南に一海を渡ること千余里、一大国に至る。(一支・壱岐)
又、一海を渡ること千余里にして、末廬国に至る。(松浦付近)
東南に陸行すること五百里にして、伊都国に到る。(糸島付近)
東南して奴国に至る百里。
東に行きて不彌国に至る百里。
南して投馬国に至る。水行二十日。
南して邪馬臺国に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月。
素直に解釈すると、魏の人が思っていたように南方の海上に位置してしまいます。
で、文章の解釈の仕方で
・「始め」とか「又」という個所は継続して移動しているが、それ以降は継続せず、その個所(末廬国)からの距離を表している。
・書き方で距離が先で〇〇国に至るというのが、継続して移動していて、それ以降はその個所(伊都国)からの距離を表している。
・〇里という距離を書いているのが実測で、日程を書いているのは推定である。
さらに、距離や日数を間違えて記録しているとか、東と南など方角を間違えている等の説もあると言われました。
というように、日本史では文章の解釈で判断しようとしていました。
ところが、東洋史では、当時の魏の人には最初から邪馬台国がもっと南に位置しているという概念があったというのが面白いですね。
ネットで調べると、魏は呉に心理的圧力をかける目的で、わざと邪馬台国が呉の海側にあると書いたという説がありますが・・・
魏志倭人伝がある『三国志』は西晋の陳寿によって書かれていますので、時代的に間違っているように思えます。(後代の王朝が前王朝の正史を書くというのが通例)
もちろん、陳寿も何かしらの資料を集めて『三国志』を書いたのでしょうが・・・バラバラの資料の中から、魏国内の東夷に関する記述なんて物を呉の国の人が目にする可能性は低いし、そんな些細な資料では心理的圧力にはならないでしょう。
私的には、魏の使者が実際に訪れていたのは当時の中国で使われていた距離で書かれている部分までで、日数で書かれているのは邪馬台国の使者から伝え聞いた部分だと推定し・・・邪馬台国の使者が、東夷の国々の中でのランクアップを狙って、南方にあるように盛って言ったのではないか?と思っています。