2人とも、合理的な考えの持ち主だったので、城の威容を示す事で、不要な戦を避けたのではないでしょうか?
両者とも、一介の浪人から一国一城の主となった、まさに典型的な
下剋上の象徴ですね。
さらに、
北条早雲は、天下の名城である
小田原城を作ったという点も似ていると思います。
豊臣秀吉の天下統一の仕上げとして、日本中の大名で取り囲んで、やっと落とす事ができたのです。
そういえば、
斎藤道三が岐阜に目を付けたのは、京都にでる要所だったと言われますが・・・小田原も
東海道の要所です。
まだ
鎌倉幕府の影響も残っていたと思われるし、坂
東武士を押さえるのにも良い場所だったように思えます。
きっと、
北条早雲も合理的な考えの持ち主だったのではないでしょうか?
異なる点といえば、
斎藤道三は息子の
斎藤義龍に殺されたのですけど・・・
北条早雲は天寿をまっとうし、北条家は5代続きました。
もっとも、
斎藤義龍は本当の息子ではなかったとも言われているし・・・結局、義理の息子の
織田信長が仇をとったのですが・・・やはり
斎藤道三が目をかけていた
明智光秀に打ち取られてしまいました。
ちょっと、
斎藤道三の方が、子孫などに残すという点でも甘かったかもしれません。
ちなみに、
斎藤道三と
北条早雲とも「新九郎」と名乗っていた時期があるというのも、奇妙な一致です。
という事で、なんとなく似たタイプの武将の二人ですが・・・私は、どちらかといえば、
北条早雲の方が、好きなタイプですね。