仇討ち

今日12月14日は忠臣蔵の討ち入りの日です。
先日、12月8日の真珠湾攻撃を奇襲攻撃というのは、ちょっとしっくりこないと書きましたが・・・忠臣蔵の元になった赤穂浪士の吉良邸討ち入りを仇討ちというのも、しっくりきませんね。

実は、仇討ちというのは変だという指摘は、江戸時代からあったそうです。
そもそも、浅野内匠頭は幕府の命によって切腹したので、吉良上野介が殺害した訳ではありません。
だから、あえて仇といえば幕府になるのですが・・・殿中での刃傷事件は死罪と決まっていた事を考えれば、浅野内匠頭の自業自得と言えると思います。
そういえば、打ち首でなく、名誉を重んじられて切腹を命じられたので、浅野内匠頭は幕府に感謝しています。

吉良上野介は、むしろ刃傷事件の被害者の立場になるわけです。
当然、田舎侍と言って足蹴にしたなんて事はフィクションだし、切りかかる時に浅野内匠頭が「この間の遺恨覚えたるか」と言ったというのも、はっきりしません。
「ご乱心」と言われて取り押さえられたところをみると、いきなり切りかかったのかもしれません。

このため、喧嘩両成敗ではなくて、吉良上野介はお咎めなしになります。

そもそも、遺恨というのが何か?がはっきりしないため、昔から色々と憶測されています。
賄賂の額が少なかったので、嫌みを言われたとか・・・
峠の群像」のように、両者の領地の特産が塩だったので、その販売において摩擦が生じたとか・・・
でも、何故、殿中「松の廊下」で、勅使の饗応の最中に、死罪やお家取り潰しを覚悟して、刃傷沙汰に及ぶ必要があったのか、説明になりません。

だから、劇などでは、田舎侍と言って足蹴にした事などにしないと説明がつかないのです。
あとは、本当に「ご乱心」だったとか・・・

それから、四十七士も、本当に忠義から主君の仇を討とうとしたのかも、はっきりしません。
吉良上野介の首を上げたら、自ら切腹すべきなのに、幕府からの沙汰を待っていたというのは、不自然だと言われています。

当初から討ち入りを唱えた堀部安兵衛なんかは、高田馬場の死闘で名を上げて堀部家の養子になったという過去があります。
赤穂家取り潰しにより、再度浪人の境遇になったので、討ち入りで名を上げて、どこかに召し抱えられるのを期待していたかもしれません。

大石内蔵助なんかも、忠義による仇討ちというよりは、幕府の沙汰が誤っている事をアピールするのが目的で討ち入ったような気がします。
これによって、幕府が考え直して、あわよくばお家再興、わるくても旧浅野家家臣への風当たりが改善される事を期待していたのではないでしょうか?

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峠の群像 一」 堺屋太一著 文春文庫

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峠の群像 二」 堺屋太一著 文春文庫

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峠の群像 三」 堺屋太一著 文春文庫

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峠の群像 四」 堺屋太一著 文春文庫